トキワ荘の主力メンバーが作ったアニメ制作会社「スタジオ・ゼロ」物語。まだ知られていないことが多いスタジオ・ゼロの逸話を藤子不二雄A先生、鈴木伸一先生に語っていただきます。
まずは注文。スペシャルメニュー 酎ーダ―と「ラーメン大好き小池さん」のチキンラーメン
酎ーダ―を頼みました。普通においしかったです。
以下、藤子不二雄A先生と鈴木伸一先生がでてきた前半のトークをダイジェストで。
◆みんなテラさんにお金を借りていた。
「寺田バンク」と呼んでいたぐらい。
鈴木伸一はトキワ荘に入居する際、テラさんに敷金を借りた。
石森章太郎も赤塚不二夫も藤子不二雄もみんな月末になるとテラさんに家賃を借りていた。
テラさんは漫画に対して一家言あって非常に厳しく、暴力的な漫画は一切認めなかった。藤子不二雄や石森章太郎はそのような(暴力的なアクション)漫画もかいていたが、テラさんにはみつからないようにしていた。テラさんも見ていないふりをしていた。
◆森安なおや伝説
鈴木伸一はお金が無いのに森安なおやを居候においていた。
「お金は全くないのに人のお金は自分のお金のように使う」(藤子不二雄A)
「金がないくせにダンディー」(鈴木伸一)
「ある夜、鈴木氏の部屋に入ったら森安氏が電気に手を近づけているので、寒いから手を暖めているのかと思ったら、実はパンにバターを塗って電灯で溶かそうとしているところだった」(藤子不二雄A)
「部屋には敷き布団しかなかったので、森安氏はその敷き布団を体にグルグル巻いて寝ていた」(藤子不二雄A)
後に鈴木伸一は漫画家の横山隆一率いる「おとぎプロ」にアニメーターとして入社。
それから生活が一変した。食生活も良くなった。そのうちにそこに住み込んで居候になった。鈴木伸一がおとぎプロに住み込んでいる間、鈴木の部屋の居候の森安は、トキワ荘の鈴木の荷物を全部売りはらっていた。
◆スタジオゼロ物語
鈴木は後に独立。
アニメーションの会社「スタジオゼロ」をつくった。
全員同格ということにしていたので、最初の社長をあみだくじで選んだ。初代社長が鈴木。藤子不二雄は5人目で結局社長になる前につぶれた。最期の社長は石森章太郎。
ものすごいボロな会社だったので「スタジオボロ」と呼んでいた。
斜め前に角田の兄の家があった。
つぶれた時、借金もなくプラスマイナスゼロだった。
手塚プロから鉄腕アトムの「ミドロが沼」の制作を頼まれた。
それぞれが個性を発揮したアトムをばらばらに書いたので一見して誰が書いたかわかった。「個性がありすぎて統一性がなかった」(藤子不二雄A)
「つのだじろうははっきりわかった。あれは僕もまずいなあと思った」(藤子不二雄A)
※後半、当時手塚プロにいた石津嵐がこのアトムの絵がバラバラだった「ミドロが沼」の修正でどれだけ苦労したかを語ってくれました。
スタジオゼロのトレースマシーンを駆使して「毛沢東伝」をかいていた。人気は出たが、右翼からいろんな圧力がかかって大変だった。
◆オバケのQ太郎
「スタジオゼロ」に収入がなかったので、これをスタジオゼロの作品にしようと思った。
最初は藤子不二雄、石森章太郎、つのだじろう4人の合作。
大変だったので9回でやめたら人気があったため、投書が殺到、それで作品を藤子不二雄名義として再開。結果的にこれが藤子不二雄の出世作になった。
当時漫画家の社会的地位が低かったにもかかわらず、藤子不二雄Aが良家のお嬢さんだった今の奥さんと結婚できたのもオバケのQ太郎がヒットしてアニメになっていたおかげとか。
◆これまでで一番困難だったことは?
デビュー当初、いろんなところから依頼が来ると、うれしくて断れなかった。
大量に締め切りをかかえつつ大晦日に夜行で故郷へ帰った。元旦から5日までは出版社も休みなので一切催促がない。しかし、6日から10社から電報の催促がきた。
しかし故郷に帰ってから原稿が全然できていない。結局8本落とした。
「ゲンコウオクルニオヨバズ」という電報が来た時は二人ともむしろ「やったー!」という心境だった。
それからすぐには東京へいけず、結局2月の頭に東京へ出ていった。
干された状態が二年間続いた。しかし、周りの連中がみんな売れていなかったので売れていないのがなんでもなかった。それ以来一本も原稿を落としたことはない。
◆「少年時代」秘話
「小説の漫画化権を買ったのはたぶん僕が初めて」(藤子不二雄A)
編集者には事前に内容が内容なので「絶対にヒットしないよ」と断って一年限定の約束で連載をする。3ヶ月書いたけれど一通もファンレターがこない。こんなのは初めて。
編集者に悪いからやめるといったが、「一年の約束ですので一年やってください」と言われたので続けた。
連載終了後、ハガキや封書が山のように来た。ほとんどが「漫画を読んで初めて泣いた」など。それで藤本と別れてから独立した記念にもちょうどいいので、これの映画をつくることに決めた。
主題歌を当時よく一緒に酒を飲んだり遊んだりしていた井上陽水に、普段書いたことがない手紙を書いて頼んだ。
井上陽水が「安孫子さんが詞を描いたら曲を作る」といったので藤子不二雄Aは二ヶ月かかって詞を書いて送ったが、ずっと井上陽水から返事がない。
マネージャーに聞くと、全国ツアーがあるので忙しいらしい。藤子不二雄Aは一回も催促はしなかった。ぎりぎりの夜の十時ごろに仕事場で電話を受けて「できたから来てくれ」といわれた。素晴らしい曲ができた。井上陽水は全国ツアーをキャンセルして曲をつくっていた。4週間スタジオにこもって作り続けた。
しかし「オレの詞を一言も使ってない」(藤子不二雄A)
結局、曲は間に合わず、映画にはとんと効果がなかったのだが、その後井上陽水のリサイタルの締めでは「少年時代」をするようになった。
以下、藤子不二雄A先生と鈴木伸一先生がでてきた前半のトークをダイジェストで。
◆みんなテラさんにお金を借りていた。
「寺田バンク」と呼んでいたぐらい。
鈴木伸一はトキワ荘に入居する際、テラさんに敷金を借りた。
石森章太郎も赤塚不二夫も藤子不二雄もみんな月末になるとテラさんに家賃を借りていた。
テラさんは漫画に対して一家言あって非常に厳しく、暴力的な漫画は一切認めなかった。藤子不二雄や石森章太郎はそのような(暴力的なアクション)漫画もかいていたが、テラさんにはみつからないようにしていた。テラさんも見ていないふりをしていた。
◆森安なおや伝説
鈴木伸一はお金が無いのに森安なおやを居候においていた。
「お金は全くないのに人のお金は自分のお金のように使う」(藤子不二雄A)
「金がないくせにダンディー」(鈴木伸一)
「ある夜、鈴木氏の部屋に入ったら森安氏が電気に手を近づけているので、寒いから手を暖めているのかと思ったら、実はパンにバターを塗って電灯で溶かそうとしているところだった」(藤子不二雄A)
「部屋には敷き布団しかなかったので、森安氏はその敷き布団を体にグルグル巻いて寝ていた」(藤子不二雄A)
後に鈴木伸一は漫画家の横山隆一率いる「おとぎプロ」にアニメーターとして入社。
それから生活が一変した。食生活も良くなった。そのうちにそこに住み込んで居候になった。鈴木伸一がおとぎプロに住み込んでいる間、鈴木の部屋の居候の森安は、トキワ荘の鈴木の荷物を全部売りはらっていた。
◆スタジオゼロ物語
鈴木は後に独立。
アニメーションの会社「スタジオゼロ」をつくった。
全員同格ということにしていたので、最初の社長をあみだくじで選んだ。初代社長が鈴木。藤子不二雄は5人目で結局社長になる前につぶれた。最期の社長は石森章太郎。
ものすごいボロな会社だったので「スタジオボロ」と呼んでいた。
斜め前に角田の兄の家があった。
つぶれた時、借金もなくプラスマイナスゼロだった。
手塚プロから鉄腕アトムの「ミドロが沼」の制作を頼まれた。
それぞれが個性を発揮したアトムをばらばらに書いたので一見して誰が書いたかわかった。「個性がありすぎて統一性がなかった」(藤子不二雄A)
「つのだじろうははっきりわかった。あれは僕もまずいなあと思った」(藤子不二雄A)
※後半、当時手塚プロにいた石津嵐がこのアトムの絵がバラバラだった「ミドロが沼」の修正でどれだけ苦労したかを語ってくれました。
スタジオゼロのトレースマシーンを駆使して「毛沢東伝」をかいていた。人気は出たが、右翼からいろんな圧力がかかって大変だった。
◆オバケのQ太郎
「スタジオゼロ」に収入がなかったので、これをスタジオゼロの作品にしようと思った。
最初は藤子不二雄、石森章太郎、つのだじろう4人の合作。
大変だったので9回でやめたら人気があったため、投書が殺到、それで作品を藤子不二雄名義として再開。結果的にこれが藤子不二雄の出世作になった。
当時漫画家の社会的地位が低かったにもかかわらず、藤子不二雄Aが良家のお嬢さんだった今の奥さんと結婚できたのもオバケのQ太郎がヒットしてアニメになっていたおかげとか。
左から山田ゴロ、鈴木伸一、藤子不二雄A
◆これまでで一番困難だったことは?
デビュー当初、いろんなところから依頼が来ると、うれしくて断れなかった。
大量に締め切りをかかえつつ大晦日に夜行で故郷へ帰った。元旦から5日までは出版社も休みなので一切催促がない。しかし、6日から10社から電報の催促がきた。
しかし故郷に帰ってから原稿が全然できていない。結局8本落とした。
「ゲンコウオクルニオヨバズ」という電報が来た時は二人ともむしろ「やったー!」という心境だった。
それからすぐには東京へいけず、結局2月の頭に東京へ出ていった。
干された状態が二年間続いた。しかし、周りの連中がみんな売れていなかったので売れていないのがなんでもなかった。それ以来一本も原稿を落としたことはない。
◆「少年時代」秘話
「小説の漫画化権を買ったのはたぶん僕が初めて」(藤子不二雄A)
編集者には事前に内容が内容なので「絶対にヒットしないよ」と断って一年限定の約束で連載をする。3ヶ月書いたけれど一通もファンレターがこない。こんなのは初めて。
編集者に悪いからやめるといったが、「一年の約束ですので一年やってください」と言われたので続けた。
連載終了後、ハガキや封書が山のように来た。ほとんどが「漫画を読んで初めて泣いた」など。それで藤本と別れてから独立した記念にもちょうどいいので、これの映画をつくることに決めた。
主題歌を当時よく一緒に酒を飲んだり遊んだりしていた井上陽水に、普段書いたことがない手紙を書いて頼んだ。
井上陽水が「安孫子さんが詞を描いたら曲を作る」といったので藤子不二雄Aは二ヶ月かかって詞を書いて送ったが、ずっと井上陽水から返事がない。
マネージャーに聞くと、全国ツアーがあるので忙しいらしい。藤子不二雄Aは一回も催促はしなかった。ぎりぎりの夜の十時ごろに仕事場で電話を受けて「できたから来てくれ」といわれた。素晴らしい曲ができた。井上陽水は全国ツアーをキャンセルして曲をつくっていた。4週間スタジオにこもって作り続けた。
しかし「オレの詞を一言も使ってない」(藤子不二雄A)
結局、曲は間に合わず、映画にはとんと効果がなかったのだが、その後井上陽水のリサイタルの締めでは「少年時代」をするようになった。
藤子不二雄A先生を生でみられたことに感激でした。途中、西原理恵子と高須院長も登場、場を盛り上げてくれたのも予想外で良かったです。
それにしても藤子不二雄A先生のトークの軽妙でおもしろいこと。満賀道雄とはだいぶ違ったキャラクターでしたが、エピソードをいろいろ聞いていると昔「まんが道」や「少年時代」を何度も読み返した記憶がよみがえりました。
藤子不二雄A「まんが道 (1) 」(中公文庫―コミック版)
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