馬超(ばちょう)、字は孟起。
(176 - 222年)
今日は、高島俊男「三国志 きらめく群像」の第六章「西方の暴れ者」より、韓遂の活躍した時代の涼州事情の最終回だよ。
三国志 きらめく群像 (ちくま文庫)
高島 俊男
ところが、漢中に軍を進めるためには必ず関中を通らないといけない。
だから、一応は曹操の支配下にあった関中の諸将たちは、曹操が漢中攻めのために関中を通ることを口実に、本当は自分たちを攻撃するつもりではないかと疑心暗鬼になって、馬超、韓遂を担いで叛乱を起こしたんだ。いわゆる潼関(どうかん)の戦い(渭水(いすい)の戦い)だね」
ガチョオ「西涼のやつらお得意の、大将の担ぎあげやな。しかし、関中、漢中ってややこしいな」
前も言ったように、函谷関の西、長安のあたり一帯の地域名が関中で、それより南の方にある狭い地域が漢中なんだ。
叛乱軍は馬超、韓遂を筆頭に、候選(こうせん)、程銀(ていぎん)、楊秋(ようしゅう)、李堪(りかん)、張横(ちょうおう)、梁興(りょうこう)、成宜(せいぎ)、馬玩(ばがん)らだ(余談だけれど、これらの武将の名前は全て、Google日本語入力だとちゃんと変換候補に出てくるんだから、すごい時代になったものだ)」
アヒオ「で、結果は御存知の通り、馬超と韓遂はその後うまくいかなくなって、仲間割れしてしまい、曹操の勝利で終わるんだ。
そして負けた馬超、韓遂は涼州へと逃げる。
翌年、曹操は鄴(ぎょう)へ戻り、叛乱の報復とばかり、都にいた馬騰とその一族、及び人質にとっていた韓遂の子と孫を殺してしまうんだ」
だから、吉川英治の小説や、横山光輝の漫画もそうなっているよね。でも史書では順序が逆なんだ。
こんなふうに史実と食い違うところがあるから演義はダメだなんて言う人もいるかもしれないけれど、ボクは全く逆で、むしろこういう改変こそが、演義の巧みなところで、魅力だとボクは思うんだよね。
「父が殺され、怒りに燃えた馬超が一族の復讐戦を挑む」っていう方が物語としてはずっとドラマチックで馬超が魅力的だし、話として無理がないからね。
逆に、史書の通りだと、あれ?家族がみんな都にいるのに、わかっててなんで叛乱なんか起こすの?
馬騰とその一族が死んだのって、馬超のせい?って、いまいち馬超の行動に対して納得ができないんだよね」
アヒオ「まあ、涼州に残った彼には彼なりの事情があったんだろうとは思うけれどね。
で、潼関の戦いで敗れ、涼州に帰った馬超は、翌212年に今度は単独で羌族の兵を集めて、隴上で再度叛乱を起こすんだ。
この馬超のリターンマッチでは、討伐に来た夏侯淵に勝ったり、涼州刺史の韋康(いこう)を殺害したりと、結構がんばったんだけれど、結局、楊阜(ようふ)に敗れて、家族も殺され、張魯を頼って、漢中へと落ちのびるんだ。
その後のいきさつは御存知の通り」
ガチョオ「おお、あれからまた曹操に挑戦したんか!やっぱり馬超も根性あるなあ」
アヒオ「で、韓遂だ。彼は涼州へ逃げ帰ってからは、羌族(きょうぞく)、氐族(ていぞく)を頼って勢力の回復をはかろうとしたんだ」
で、曹操は214年、夏侯淵を派遣して、涼州討伐の兵を出す。
で、韓遂はここでも負けて、逃げるんだ」
ガチョオ「うーん。また負けか。なんか聞いてると、だんだん南蛮の孟獲とかぶってくるなあ」
アヒオ「で、翌215年、再び曹操が漢中の張魯を攻めようとして、そのために涼州に入った時、麹演(きくえん)や蒋石(しょうせき)らが、降伏の証にと、曹操のところへ韓遂の首を持ってきたんだ。
韓遂は殺されたとも、病死した後首を切られたともいわれているけれど、ともかく涼州の諸将が曹操に対して全面降伏したんだね」
ガチョオ「確かに。キャラ立ちまくりやもんなあ。劉表とか、袁術とか、公孫瓚とかみたいな準主役級ぐらいのポジションでもおかしくない勢いやな。
こうやって聞くと、やっぱり演義の方は話をわかりやすくしたり、おもしろくするために、いろいろ削ったり加えたり手が入ってるっていうのがよくわかるなあ」
でも、三国志演義で曹操と韓遂が、戦いの最中、一対一で馬上で昔の思い出を語る(で、それがきっかけで馬超が、韓遂は曹操と通じているのではないかと疑い出す)、っていう場面があったと思うんだけれど、この場面は「交馬語」といって、史書にも載っているんだ。
彼は交馬語が好きだったみたいで、過去に李傕、郭汜一味だった樊稠とも「交馬語」をしたという記録が残っているよ」
<関連過去記事>
<キャスト>
白鳥(しらとり)先生・・・スワン系アラサー女子。カモ文化学園の教師。独身。学園のマドンナ的存在で、密かに思いを寄せる男子生徒多数。好きな話題はシモネタ。好きな牛丼系チェーン店は松屋。
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